サンレモから地中海側を南下したジロも、既に現在はアドリア海側から北上中。
現在はマルケ州、チビタノバマルケ、ここにて第一回の休息日を迎えております。
ここは、欧州に渡り2年目、1999年に1年間滞在した街でもあります。
僕は98年日本チームからの紹介で研修として渡欧。その研修先のチームは解散となりましたが、現地採用の機会を得て99年チビタノバマルケの小さなプロチームに移籍、そこから本格的にイタリアでの活動が始まりました。
しかし、、
所属して初めて分かる、レベルの低い組織、施術家やトレーナーとはとても呼べ無い人材のチームという現実。
自分自身の技術や知識の向上にプラスにならない環境で蓄積する日々のフラストレーション。
更に、給料未払い、覚えの無い罪が知らぬ間に自分に着せられる、など不当な事象に対するチームへの不信感と怒り。
身元引き受け人が居ない海外での活動は基本何があっても全て自己責任は当然、
というなか、なかなかに苦しい、いわゆる”試練の年”をここで過ごす事になりました。
当時僕が取れる選択は、辞めて日本に帰るか、翌年に良いチームに転職するかの二つのみ、
良いチームと契約を結ぶことが、ここを乗り越える最善の方法である事は理解していたので、その為にも感情のまま行動することだけは避け、決して腐らず、現場の嫌な仕事を率先しトレーナー業務を全うするべきと思ったものです。
その後、フェレッティからオファーをらったときは、やはり仕事や行動は誰かに見られていると痛感したものです。
腐らないで良かったです。
海外での活動を考える若いトレーナーにアドバイスする時に話す言葉でもあります。
また当時の出来事など、今振り返えれば全てが取るに足ら無い、笑い話程度の思い出に過ぎない事とも、今更ながら気づきます。
そんなことを思いつつ、アドリア海の灰がかった海を見ながらペッシェフリットを食すジロ休息日となりました。
懐かしの写真:日々のストレスは、当時の同僚の永井氏と共に日本語と酒で分解処理。苦しみを共有できる人物がいたことは試練の年を乗り越える上で大きかった。デジカメが35万画素の時代
ベッシェフリット。
当時のチーム事務所の近くのにオーナー友人経営の海に面したレストランがあり、仕事の日は自由に昼食をして良いと言われいた。そこで決まって出るのがペッシェ・フリット。
そしてチームを出る最後の日に、3ヶ月分の給料カットの同意書にサインを強いられ、その時に言われた「君はアドリア海の魚を食べるだけ食べたくせに、お金までも欲しいのか?」の言葉は忘れられ無い。
もちろん給料を払いたく無いとっさの理由から出た言葉で、それはその後、イタリア競技関係者の間で流行したくらいに有名なセリフとなった。
今となっては可笑しい思い出。
コメントを残す